岡山恭崇選手(230cm)の現役時代(1987年/33歳)Most tallest Japanese basketball player, Yasutaka Okayama, 7.6ft

2019/06/28 に公開
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八村塁選手のドラフト指名で一躍話題になった、岡山恭崇(230cm)選手の現役時代の動画です。

1987年のオーストラリアとの試合の様子です。

背番号は5番です。

1954年生まれなので、当時33歳。選手としては晩年です。

岡山選手は、住友金属に所属し、リバウンド王、得点王などを獲得した名選手です。

アジアでは中国の穆鉄柱(228cm)と並び、最も背の高い選手の一人でした。

1984年ごろにアジア大会で日本と中国が対戦したことがあり、岡山選手と穆選手も直接対決しましたが、身長ではやや岡山選手の方が高かった記憶があります。

穆鉄柱選手は本当に背が高いだけで、シュートフォームも不格好でリバウンドを取るだけのの選手でした。

身長230cmには諸説ありますが、当時サントリーボール(NCAAの公式戦)で来日したラルフ・サンプソン選手(223cm)との記念写真では、10cm近く岡山選手の方が長身でした。

岡山選手は、手先の器用さがあり、フリースローやフックシュートなども比較的上手でしたが、身体能力には恵まれませんでした。

当時の日本リーグの選手名鑑では、50m走が8.3秒、垂直飛びが38cmと記録されていた記憶があります。

ツインタワーとして同時期に活躍した、北原憲彦選手(201cm)が、50m走が6.5秒、垂直飛びが65cm(確か)でした。

北原選手は190cm台の選手と比べても見劣りしない運動能力で、この時代の日本のエースでした。

ちなみに、日本初の2m選手は、松下電器の沼田宏文選手(204cm)と言われていますが、動きはかなり悪くほぼディフェンス専門の選手でした。

1980年代でも、比較的動きの良いよい2m選手はいました。

斉藤文夫(201cm)、武田和夫(202cm)、馬場敏春(200cm=馬場雄大の父)などは、運動能力の高さは感じさせましたが、選手としてはあまり大成しませんでした。

ちなみに、馬場敏春選手はボールハンドリングもよく、当時の小浜敏孝前日本代表監督から目を掛けられていました。

ゆくゆくはマジック・ジョンソンのようなポイントガードに育てようと指導されていましたが、所属の三井生命ではセンターだったので、ガードとしては大成しませんでした。