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中世以来の繁栄と抑圧された歴史
まず、「カタルーニャ」と一言にいうが、狭義のカタルーニャは、スペインの「カタルーニャ自治州」のことである。首都はバルセロナ。今、独立しようとしているのはこの自治州である。そして、カタルーニャ語文化圏という意味で使う時は、マヨルカ島などがあるバレアレス諸島、オレンジで有名なバレンシア、そして、フランス領北カタルーニャなどがここには含まれる。
中世には、この「大カタルーニャ」は、内陸の隣国アラゴンと合併して「カタルーニャ・アラゴン連合王国」となり、地中海の一大海洋帝国としてジェノバなどと覇権を争った。
また、カタルーニャ語は、ローマ帝国の言語であったラテン語が進化してできあがったもので、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語などとは姉妹関係にある。言語人口は約600万人。ヨーロッパの基準では、すごく小さいというわけでもない。
しかも、中世以来の豊かな文学的財産を持っている。こういった歴史や文化がカタルーニャ人の大きな誇りになっていることは言うまでもない。
中世の絶頂期が終わると、カタルーニャはいくつもの暗黒時代を経験した。スペイン継承戦争の次は、1936~39年のスペイン内戦後に成立したフランコ独裁政権による圧政だった。
フランコ政権は、内戦中に敵側についたカタルーニャに対し、大変厳しい弾圧を行った。またしてもその言語は禁じられ、社会の表面から姿を消す。個人の名前までカタルーニャ語からスペイン語に変えられた。そのほか民族のアイデンティティーを象徴するものはすべて葬り去られたのである。
75年のフランコの死後、スペインが民主化する中で、カタルーニャも自治を回復した。カタルーニャ語も復権することができた。しかし、そんな中でも、カタルーニャの人々は過去の
カタルーニャ自治憲章
「国民の日」はこのように、カタルーニャ人のアイデンティティーと大きなかかわりのある祝日だが、最近、特別な色合いを持つようになってきた。毎年、大規模デモが行われるようになったのだ。
始まりは2012年で、この時は百数十万人が集まって世界を驚かせた。目的は、カタルーニャ独立の意思表示である。きっかけは10年のある出来事だった。
スペインの現行憲法が1978年に制定されると、その規定に従って同年、カタルーニャ自治憲章が制定された。2006年、いささか古くなった憲章を改正しようということになり、カタルーニャが一つの民族であること、カタルーニャ語の使用のさらなる拡大などが盛り込まれた。新しい自治憲章はカタルーニャ議会で承認され、スペイン国会でも多少の修正と共に承認された。
ところが、フランコ政権の流れを
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