邪馬台国前後の古代日本史(あやしい)

2021/08/13 に公開
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固有名詞は倭系を赤・韓系を青で強調してあります。言語史を検討するうえで古代日本語と古代朝鮮語の接触を考える参考になるかと思います。接触した言語の間には相互に借用語が生じるため、比較言語学において文献以前の言語の姿を知る手掛かりになります。日本と朝鮮はそのような関係にあるということです。
動画に入れ忘れましたが、5世紀ごろには九州先住民「熊襲」が倭に同化され消滅します。6世紀以降は情報が多く、歴史教科書で見慣れた話に繋がるので省いています。
7世紀には倭が「日本」を名乗るようになり、日本でも新羅でも言語の記録[注]が本格的に始まります。既に消滅した九州の少数民族「隼人」が朝貢します。遣隋使、遣唐使、大化の改新、蝦夷討伐、百済滅亡、壬申の乱、白村江の戦い、といった有名なイベントのほか、一説には倭系言語が話されていたと言われる「耽羅国(=民村国 *tam-mura ?)」の使者が日本を訪れます。耽羅国の言語の記録は極めて乏しいですが、673年5月に日本に来た3人の耽羅人の名前は「久麻藝(=熊岐)」「都羅(=虎)」「宇麻(=馬)」と日本語の動物に見え、朝鮮語では解釈困難です。耽羅国はその後、朝鮮語に同化され、現在の済州[チェジュ]島となります。現在の済州島では「済州語」という少数言語が話されますが、これは日本語からの新しい借用語(例えば「箸」하시 ハシ)をわずかに含んだ古風な朝鮮語の方言に過ぎず、既に古代日本語の痕跡はありません。
([注]しばしばネットの右翼界隈で誤解がありますが、ハングル以前の古代朝鮮語も断片的に漢字で記録されており、既に現代韓国語と同じ語順です)

史実性を考えるうえで興味深いのは、倭が新羅を頻繁に侵略したという新羅側にとって不名誉な記録が、新羅側の『新羅本紀』に詳細に残っているということです。