落語【春風亭柳昇】(3)|残しておきたい昭和の演芸

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五代目 春風亭柳昇の落語
「カラオケ病院」をお楽しみください。

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五代目 春風亭柳昇
1. https://youtu.be/oPGlyu0SiNM
2. https://youtu.be/oecidz4AwdM
3. https://youtu.be/Ew7D6HIM9bg

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五代目 春風亭 柳昇(1920年10月18日 - 2003年6月16日)
本名:秋本 安雄。ペンネーム:林 鳴平。
 
太平洋戦争中は陸軍に召集され、歩兵として中国大陸に渡ったが、敵機の機銃掃射で手の指を数本失っている。利き手をやられたため、元の職場に復職することもできず途方に暮れていたところ、戦友に6代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で生活のために柳橋に入門して落語界入りした。初高座は1946年12月1日の鈴本演芸場昼の部だった。
手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動して成功を収めた。ただ、数は少ないが古典落語のネタも持っており、『雑俳』や『お茶漬け(茶漬間男)』などを演じている。

年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け、生涯現役の噺家であったが、表舞台での挙措に衰えが囁かれるようになった矢先の2003年6月16日、胃癌のため82歳で死去した。
日本会議代表委員を務めるなど、保守系の言論活動も行った。
次男はアニメ監督・アニメーターの知吹愛弓。

「春風亭」は元々初代麗々亭柳橋に遡る柳派の亭号である。すなわち柳昇やその一門も柳派の系譜の一員である。まだ二つ目だった時、横浜市の真金町の遊廓の慰労会に招かれて一席を披露したことがある。当時中学生の桂歌丸は、その慰労会での柳昇の落語を生で聴き、「自分も落語家になろう」と思った。
温厚で飄々とした芸風のイメージの持ち主であるが、1984年に所属する芸協が鈴本演芸場と絶縁した際、これを不服とした桂文朝、桂文生、桂南喬が落語協会に移籍したことを聞くと「あいつらとは二度と共演したくない」と激怒するなど、裏切りを許さず生真面目で頑固な一面も持ち合わせていた。
6代目三遊亭圓生が中心人物となり1978年に引き起こされた落語協会分裂騒動の際、圓生の直弟子の中から三遊亭好生と三遊亭さん生が師匠に逆らって落語協会への残留を選んだことから、圓生が両者を破門した上に芸名を剥奪するという事件が起きた。当時芸協の副会長であった柳昇は、好生について客分格の弟子として引き受けた当時の落語協会顧問8代目林家正蔵から相談を受ける形で、好生に「春風亭」の亭号の使用許可を与えており、事実上の“高座の孤児”となった落語家の救済という、当時大揺れの落語業界の懸案事項の解決に団体の枠を超えて一役買う格好になった。
『寄席は毎日休みなし』と題する著書を著したが、寄席を休演することはあった。

冒頭で必ず言うセリフが、「わたくしは、春風亭柳昇と申しまして、大きなことを言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では…(沈黙)、わたし一人でございます…」。「我が国では」の後の沈黙で観客が笑い出すことが多かった。
晩年は「もうこんなことを言うのも飽きちゃいまして…」と付け加えることもあった。

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