福田正博の全て サッカー人生ダイジェスト 全プレー集 日本人初のJリーグ得点王 高速ドリブル ゴール集 浦和レッズ 日本代表 三浦知良 ラモス瑠偉 岡野雅行 ドーハの悲劇

2021/09/17 に公開
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サッカー ダイジェスト Football highlight

ミスターレッズと言われた浦和レッズの絶対的レジェンド福田正博。

Masahiro Fukuda is a Japanese Footballer.
スピードあるドリブル、シュート、パス、トラップ。すべてが高いレベルにあり、ジーコが日本最高の選手と評価した。
相模工業大学附属高校に進んだが冬の選手権に出場することはできなかった。
中央大学卒業後、1989年に日本サッカーリーグ2部(JSL2部)の三菱重工業サッカー部に入部。
エースの原博実が戦線離脱をしていたので開幕からスタメンを獲得。36得点で得点王になった。

1990年北京アジア大会に日本代表として出場。横山監督から右ウイングバックにコンバートされるも起用法に反発した。
1991年のキリンカップのトッテナム戦で北澤へのアシストを記録した。
同年の日韓定期戦にも出場。ラモス瑠偉や三浦知良らと共演した。

1992年にハンス・オフト監督が就任。キリンカップでは唯一の2試合連続のベンチ外の冷遇を受けるも、同年のオランダ遠征で攻撃的MFとしてスタメンを獲得した。
同年の親善試合ユベントス戦にも出場。ロベルトバッジョと対戦している。
同年のダイナスティカップやアジアカップ広島大会の優勝に大きく貢献した。
ダイナスティカップの中国戦で代表初ゴールをあげた。
カズと高木のツートップ、福田のトップ下が定着した。

1993年にJリーグが開幕。浦和レッズは低迷し、福田も調子を落とした。
チームはJリーグのお荷物と馬鹿にされた。
また、鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールをマークしたが、セレブレーション中に鹿島がゲームを再開し失点してしまう前代未聞の珍プレーを犯した。
同年のイタリア遠征のレッチェ戦でゴールを決めた。
アメリカワールドカップのアジア1次予選は全試合スタメン出場した。
最終節のUAE戦で謎の嘔吐と腹痛になり、調子を崩した。

1994年のドーハで開かれたアジア最終予選では、サウジアラビア戦とイラン戦に出場したが、調子が悪く、韓国戦、北朝鮮戦はベンチだった。
最終イラク戦では途中出場。ドーハの悲劇をピッチの中で経験した。井原正巳、柱谷哲二、森保一、北澤豪、武田修宏、堀池巧らがいた。
福田自身は何もできなかったと語っていた。
この年バインやブッフバルトが加わった。1試合4ゴールを決めた。

1995年はインターコンチネンタルカップ(コンフェデレーションズカップの前身)に出場した。
ナイジェリアやアルゼンチンと対戦し、どちらも大敗した。
同年のダイナスティカップでは前園真聖の台頭もあり、途中出場が多かった。
決勝の日韓戦では、開始早々にゴールを決めてチームを勢いづけた。

Jリーグはオジェック体制となり、ブッフバルト、バイン、岡野など強力なメンバーとの歯車がかみ合い、優勝争いに加われるまでにレベルを上げた。福田史上最も美しいゴールを決めた。
この年は最終節フリューゲルス戦でPKを決め、日本人初の得点王となった。
ジュビロ磐田のスキラッチと争っていた。
同年のサン・スパークカップのブラジル戦で日本人初ゴールを決めた。

1996年以降は怪我に苦しみ、代表に招集されることは無かった。

1999年に小野伸二など主力の怪我や4試合連続延長負けなど不運も重なりチームが再び低迷し、J2降格をした。最終節で福田が決めたVゴールは世界で一番悲しいVゴールと言われた。

2002年のヒーローインタビューで「負けないよ」と言い、そこからチームは全敗して優勝を逃すという珍事があった。
この年引退を決めた。

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