武田修宏の全て サッカー人生ダイジェスト 全プレー集 天性の点取屋 ワンタッチでゴール量産 ごっつぁんゴール ヴェルディ川崎 ドーハの悲劇 ジェフユナイテッド市原 J2降格争い

2021/11/17 に公開
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ワンタッチでゴールを量産した天才ストライカー。瞬間の速さ、ポジショニング、シュートの正確性が凄かった。和製インザーギだった。
中学3年時には日本ジュニアユース代表に選出。シンガポールで開催されたライオンシティカップに出場し、得点王となった。
静岡県立清水東高等学校に入学。1984年の第62回全国高校サッカー選手権で決勝まで進出した。
1年時から10番センターフォワードを獲得した。3年生に清水東三羽烏(長谷川健太、堀池巧、大榎)がいた。
静岡県の同級生に中山雅史がいた。
高校時代は女子生徒がグラウンドを囲むことから武田が出場すると風が止むと言われたほど大人気だった。
高校卒業後、読売クラブに入団した。
1年目の1986-87シーズンに11得点を挙げ、リーグ優勝に貢献した。
自身は新人王を獲得した。
1987年、日本代表に選出。ソウルオリンピック予選の第1戦インドネシア戦で代表デビューと代表初ゴールを記録した。
Jリーグ発足後は名門ヴェルディ川崎の黄金期を支えた。
ラモス瑠偉、三浦知良、アルシンド、柱谷哲二、北澤豪、ビスマルクらがチームメイトだった。
1990年北京アジア大会に出場。結果は残せなかった。
1991年のキリンカップ、日韓定期戦に出場した。
1992年の広島アジアカップで日本は初優勝するも出番は僅かだった。
1993年、イタリア遠征のユベントス戦で奇跡のゴールを決めた。
1994年、1995年と2年連続でチャンピオンシップを制し、年間王者になった。
オフト監督に評価され、日本代表に選出された。
1994年アメリカワールドカップのアジア最終予選では、韓国戦とイラク戦に途中出場した。
ドーハの悲劇を経験。終了間際にパスミスを犯し戦犯扱いされたが、直接的な原因にはなっていない(森保がカバーしている)。
カズ、高木琢也、中山雅史、福田正博、長谷川健太らとポジション争いを演じた。
ファルカンジャパンでも招集されたが、1994年のアジア大会以降代表招集はなかった。この大会は初戦のUAE戦のみの出場だった。

その後は、ジュビロ磐田、京都パープルサンガ、ジェフユナイテッド市原に移籍した。
ジェフではJ2降格争いを2年連続経験した。

2000年にパラグアイのスポルティボ・ルケーニョに移籍した。

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