生きているだけで価値がある、と理解する方法

視聴回数 169,720
0
0
・プレミアム放送にて、チャット欄では名指しの挨拶は御控えください

・お仕事の依頼はこちらから toiawase@wasedamental.com
・気になるニュースを募集中 https://forms.gle/3hPMKeBtMTyeLz1V6
・親を憎むのをやめる方法、など多数書籍あります
https://amzn.to/45IJNFB

・サポートネットワークの構築:YouTubeは、患者やその家族、支援者たちがつながり、情報交換や相互支援を行える場としても機能します。ご協力のほど、よろしくお願いします。

ーーー

00:00 OP
01:55 善行と悪行から予定説、悪人正機説へ
05:22 功利主義、道具主義
11:43 前頭前野を鍛える

本日は「生きているだけで価値がある」というテーマでお話ししようと思います。
なかなか深くて説明するのが難しいテーマですね。

人類はこれまでの歴史の中で、何度も命の価値ということを理解しようと思ったし、定義してきたんですよ。
現代よりも過去の方が人間というのは生きることが苦しかったんですね。
戦争があったり、飢餓の問題があったり、病気も恐ろしかったり事故があったり、安全ではなかったんですよね。
僕らみたいに安全な世界で、食べるものの不安もなく生活できたのは、本当に人類にとっては最近のことで、今まで人類は戦争だったりいろんな苦しみや怖さがあったわけです。

だから生きることが苦しかったわけですよ。
死んでしまいたいとか死にたいと思っている人もたくさんいたわけですね。

だけど、それを宗教の力で結構縛っていたというところがあります。
宗教で自殺を禁じるとか、キリスト教とかそうですけれども、そういう形で縛ることで何とか自殺を止めたりとか、生きる意味を信仰の中に求めたりしてきたというのが背景としてあります。

今回はそこら辺の話も含めて、どういう言葉が多いのか、哲学とか宗教とかいろんな観点から生きているだけで価値があるというのはどう考えられているのか、僕なりに重要そうなところをピックアップしてきたので皆さんとシェアしたいなと思います。

■善行と悪行から予定説、悪人正機説へ

信仰の話をするのであれば善行と悪行があって、正しいことをしている人は天国に行けるし、悪いことをしている人は地獄に行く。

いい人、正しいことをしている人は生きている価値があるし、天国に行けるよと。
悪いことをする人とか意地悪をする人、他人に危害を与える人は許されないから地獄に堕ちると昔の人は考えてました。

いい人は生きる価値がある。
悪いことをしている人も悔い改めたり、いろんなことをすればいい人間に切り替えていけるので、死ぬまでに良いことをすれば天国に行けるからまだ価値があるよと。
可能性があるからね、良いことをする可能性があるから、価値があるよと単純に考えていたんですよね。

その後で、いやいや、そもそも神様は無限じゃないか。無限の愛があるし、無限のエネルギーがあるじゃないかという風に考えるようになる。
より抽象的なことを考えられるようになってきて、何て言うのかな、複雑なことを人間は考えられるようになってくるんですよね。

単純な2項対立から、そんな単純な話じゃないよね、悪いと言っても救われるかもしれないし、何がいいか何が悪いかなんて人間の基準で考えてるだけだから、神様みたいな視点から絶対的なところから俯瞰的に見てしまえば、それが良いか悪いかなんか本当に些細なことだし、どっちでもいいんじゃないか。
僕もよく言いますよね。

弱さとか苦しさというのはその背景があるんですよね。
背景があるから同情する余地があったりするわけですよね。
単純にこいつはダメなやつとは言い切れないわけですよ。

その人がそういうことをしてしまう、悪いことをしてしまうには、それぐらいの背景があって、そこには同情の余地がやはりあったりします。

こんな単純な話じゃないんだよと人類は気づくわけです。
かといってキリスト教の話で言うのであれば、地獄ということを聖書に書いているわけだから、地獄を全く否定するわけにいかないんですよね。

かといって、ちょっといいことをしたとか、悪いことをしただけで決まると言うとあまりにも陳腐だし、神様がそんなことをするわけがないので、予定説を作ってあらかじめ決まってるんじゃないかというような論理展開をしていきます。

日本でも大乗仏教、浄土真宗の親鸞は悪人正機説と言って、悪人こそ自分が悪いとわかっているわけだから仏にすがるんだ。だからちゃんと信仰するんだ、ちゃんと祈るんだ、悪い人ほど祈るんだから天国に行けるんだよと。
阿弥陀仏はそれだけ優しいんだよということを言いました。
これも同じような論理展開です。

良いことをしたとか悪いことをしたからとかではなく、信仰があれば全ての人には価値がある、という考え方だし、これから信仰する可能性があるのであれば価値があるとか、そういう風に考えていったという感じです。

■功利主義、道具主義

その後、人類は神様を信じなくなっていくんですね。
神様のルールではなく、科学だったり哲学だったり、そういう資本主義やお金を信じるようになってくる。人間中心の社会になっていきます。
人間中心の中で、社会を良くしていく。

社会の中で神様を使わずに人間の価値を説明するにはどうしたらいいのかを苦心するわけです。
そこで出てきた概念はたくさんあるんですけども、今日でもよく使われている資本主義と相性がいいのが功利主義と呼ばれるものとか、道具主義と呼ばれる哲学の考え方なんですね。

功利主義というのはまあ、結果良ければ全て良し。
何かをした時に誰かが幸福になればいいんですよね。
コーラを売るというのは、一見、自分の利益のためにコーラを売っているように見えるけれども、コーラを買う人が飲んだらおいしいよね、幸せになったね、ということであれば価値があるわけです。
だからいいことをしたということですよね。

全体の幸福を増やすことをすれば、価値があるということになります。
自分の幸福だけでなく、他人から見た幸福だけじゃなくて全体を見た幸福を増やしていく。

人間が生きていれば、一人が生きていれば、何らかの形で誰かの幸福に寄与するんですよね。
自分はちょっとうつで苦しいかもしれないけれども、あなたがいることで周りの人がハッピーになることがいっぱいあるわけです。
ということは、自分は価値があるんだ。生きている価値があるってことですよね。

自分は家族もいないし、一人で苦しいだけなんだけども、その人がテレビを見たり、何かを消費している、いいものを買う。
そして益田のことを応援してくれてるとか、何でもいいんだけど、そうすると益田にとっては嬉しいから価値があったりするし、益田の動画の視聴回数が伸びると他の人にオススメされる。
そうすると精神医学のことを知れるわけだから、結果的に幸福に繋がって、価値があるとも言えたりするわけです。

目先の幸福感だけじゃなく、自分の今の快とか不快だけじゃなく、もっと大きな視点で見た時に全体の幸福に寄与する可能性があるわけです。生きているということは。究極的に言ったらね。

ある患者さんが言ってましたけど、自分たちは苦しいけれども、精神医学の薬のモルモットでもあるんだ。だから価値があるんだみたいなこと言っている人もいましたけど。
そういう言い方は僕はしませんけれども、でもある部分の真実かなという気はします。

道具主義だと幸福という言い方はあんまりしないんです。実用性があるかないかなんですよね。役に立つか立たないか。
幸福はすごく曖昧な概念だし、脳内麻薬にしか過ぎない。
脳内麻薬が出ているか出てないかなので、幸福は。究極的に言ったら。定義によりますけれど。

脳内で感じる測定できない何かではなくて、もうちょっと別の観点から価値を規定した方がいいんじゃないかというのが道具主義という考え方です。
功利主義はイギリスで生まれて道具主義はアメリカで発展した哲学の概念です。面白いよね。極めて資本主義的。

でもこれも結構面白くて、何が価値を生むのかということなんですよね。
例えば僕は自衛隊にいましたけど、自衛隊は戦っていないし、働いていないんですよね。働いてないとは言わないか。訓練はしてますけど、待機しているんですよね。
待機しているだけなんですよ。待機して、武器を買ったり消費してるだけなんですよね。

そこには価値があるのかというと、価値がないと思う人はいないですよね。
やっぱりそれは待機してることで生み出す価値があるし、いざという時に備えているという価値があるわけです。

あとは可能性ですよね。この人たちはミュージシャンを目指して失敗した、じゃあ価値がないのかというと、そういうわけじゃないですよね。
ミュージシャンを目指してヒットしたかもしれない、その可能性があったわけでそこに価値が含まれていたと。

例えば子供たちは今は役に立たないかもしれないけど、将来的な価値はあるかもしれないし、そういうことです。
全員が成功するわけじゃないから、可能性としての投資として役に立っていたということもあるだろうし、いろんな要素もありますね。

順番の問題もありますよね。
悪いことをした人でさえ、その人が泥棒で悪いことしたから結果的に問題に気付けてセキュリティが高まった、ということもあるわけですよね。
新しい技術ができたのが後の何かに繋がることもあったりするわけで。
100年、200年の単位で見たら何が正しいのかよくわからない。

一見悪いことしただけの人なんだけども、この人のおかげで人類の科学の進歩が早まったとか、そういうこともある。
最後に生み出した人だけが価値があるんじゃなくて、最初にその問題に気づいた人、それは意図的に気づいたのではなく、偶然気づいた人でさえ価値があったりするということだったりもしますね。
道具主義的な観点から見るとそういう風に言えたりします。

■前頭前野を鍛える

こういう小難しいこと言わずに命それ自体に価値があるんじゃないか、奇跡的なんじゃないか、美があるんじゃないかみたいな言い方もしますし、こちらの方が直感的なのかなという気がしますね。

僕らは子供たちを見た時にかわいいと思ったり、守ってあげたいと思うわけですよ。ほとんどの人がね。
苦しんでいる人がいたら、助けてあげたいと思うわけですね。
助けてあげたいと思う僕らの気持ち、そういう気持ちを持っている僕らは価値があるし、助けてあげたいと思わせる人たちにも価値があるわけですよね。
価値がなかったら思わないわけだから。

それも一つなんだけども、でもこれは直感に頼り過ぎているなという感じもしなくはないなと思います。
本当に落ち込んでいて視野が狭くなっている時に、本能とか自分の感情をベースに論を展開していくのは精神科臨床的に難しい時があります。

カウンセリングや臨床の本質は、扁桃体vs前頭前野と言ってますけど、ロジカルな思考を鍛えるところでもあるんですよね。
本能とか感情レベルでは自分は意味がないとかダメなんだとか思っているけども、理性的にいやいや待てよ、それは今病気だから脳の一部がそう言ってるだけであって、冷静に考えたら俺は価値あるよねと思えるということが、病気の治療の中で重要なんですよ。

前頭前野を鍛える。前頭前野を鍛えるというのはロジカルに考えることだから、赤い四角の枠なんですよね。
予定説とか実用性の話。
この超俯瞰的な視点なのかなと思います。

概要欄続き
https://wasedamental.com/youtubemovie/7630/#c01

#予定説 #神の愛 #悪人正機説 #功利主義 #道具主義 #精神科医 #益田裕介 #オンライン自助会