内田篤人 解体新書【右サイドバックの系譜】How to Uchida Mo Koi Uchida Mo!!

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#ぷあたん #解体新書 #内田篤人
2020年、現役を引退した元日本代表DF内田篤人(うちだ・あつと)。日本屈指の実績を持つ男が挑んだ2つのW杯… 4年の時を越えてたどり着いた夢舞台、繰り返されるピッチ外のドラマ、最高のDFが歩んだ軌跡を今ここに残したい。

【Chapter】
0:45 失意の2010年大会
2:40 シャルケ移籍、ワールドクラスへの成長
6:10 本大会4か月前の大けが
7:53 史上最強ザックジャパン出陣
17:25 悪夢のコロンビア戦、そして…

2014年ブラジルW杯、ザッケローニ監督が率いる日本代表『ザックジャパン』の右サイドバックには内田篤人が選ばれた。内田は大会4か月前に大けがを負っていたが、懸命のリハビリでメンバーにすべりこんだ。彼を突き動かしたのは4年前に味わった悔しさと、なんとしてでもW杯に出たいという想いだった。

4年前…2010年南アフリカW杯。内田篤人はメンバー入りしたが、右サイドバックで先発したのは駒野友一だった。駒野は日本のベスト16進出に貢献し、内田はベンチでその姿を眺めることしかできなかった。内田はこの時について「僕はW杯をまだ知らない。だけど、出られなくてもすごく悔しいことは知ってる」と自伝で心境を語っている。
後日、当時の監督である岡田武史と内田の対談が行われ「日本が世界を相手に勝つには、どうしても守備しなくちゃならない。内田にはその強さが足りなかった」と岡田は率直な理由を明かした。

2010年7月、内田は鹿島アントラーズからドイツ1部シャルケ04に移籍。当時はドイツ代表GKマヌエル・ノイアー、元レアル・マドリードの伝説的FWラウール・ゴンザレスなどが所属していた強豪クラブ。内田は秋ごろに右サイドバックの定位置をつかみ、いきなり欧州杯ベスト4に進出するという日本人史上初の偉業を成し遂げる。準々決勝ではインテルDF長友佑都とこれまた史上初の日本人対決を実現させ、いきなり日本屈指の実績を築き上げた。

内田にはほとんどの相手に負けない俊足、狭いスペースをつく高精度キックがある。ポゼッション戦術のシャルケにとって、正確にボールを蹴れるDFは貴重な存在だった。そして弱点の球際も、欧州の舞台でもまれ成長していく。とりわけあざやかにボールを刈り取るタックルは内田の得意技である。カバーリングの意識も高く、ゴールカバーは誰よりも早い。そのため失点時には内田の姿がよくクローズアップされ、それを見た視聴者に「内田がやらかした」と勘違いされることもしばしばあった。
その後は細かい怪我を繰り返しながらプレーし、2014年2月、ついに大けがを負ってしまう。ブラジルW杯まで4か月…シャルケ側は手術を勧めたが、内田はリハビリを選択。W杯に出るためにはそれしか方法がなかった。

迎えたブラジルW杯、ザックジャパンの右サイドバックには内田篤人が立っていた。イケイケな左サイド『本田×香川×長友』とバランスを取れる経験豊富なDFは内田以外にありえなかった。当時の代表は歴代最強と言われる個性豊かなメンバーが揃い、本田圭佑は優勝を公言するほど自信を持っていた。
だが、結果は悲惨なものになった。左サイド任せの戦術は研究されつくし、工夫のない攻撃から何度もカウンターを受ける。内田個人は決定的チャンスを何度か作るものの、ゴールには至らない…キャプテン長谷部のコンディション不良もあり、精神的な支えすら失ったザックジャパンは2敗1分であっけなく大会を去ることになった―――

無残に散ったザックジャパン。この大会で得たものはなにもなかったのか、なにが次に繋がるのか? その答えはピッチ外にあった。テーピングぐるぐるにしてボロボロな内田篤人、そんな彼をベンチから眺めるだけで、なにもできなかった2人の男。彼らが明かした胸の内、それはまるで8年前の内田篤人を重ねるようなものだった。

《参考文献》
僕は自分が見たことしか信じない 内田篤人(著)
内田篤人 悲痛と希望の3144日 了戒美子(著)
朝日新聞デジタル

BGM
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