山田暢久の全て サッカー人生ダイジェスト 全プレー集 GK以外全てできる天才 浦和レッズ ACL優勝 ゴール集 ドリブル集 History

2021/12/27 に公開
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1992年 藤枝東高校時代、全日本ユース選手権 決勝で読売クラブユースと対戦し、3-1で勝利した。読売の1点は財前宣之だった。
1993年 SBSカップ 決勝 U-20日本代表 vs 静岡選抜で山田は日本代表側で出場。2-1で日本代表が勝利した。川口能活が静岡選抜側で出場していた。
1994年に藤枝東高校を卒業。高卒で浦和レッドダイヤモンズに入団。レッズに入団した理由が「すぐレギュラーで出れると思ったから」。
当時はFWで福田正博と2トップを組んでいた。セカンドステージの最終節でJリーグ初ゴールを決めた。
1994年4月27日の清水エスパルス戦(草薙)でJリーグデビュー。背番号は10だった。当時のレッズはブッフバルトやバインらいい選手がそろっていたが結果が出ず苦しんでいた。
1994年 AFC U-19アジアユース選手権 ジャカルタ大会に出場した。
1995年 U-20ワールドユース カタール大会に出場した。第3戦 ブルンジ戦 PKキッカーを任されゴールを決めた。
決勝トーナメントでブラジルに敗れた。中田英寿も参加していた。
1995年以降、Jリーグでは主に右サイドでプレーした。オジェック監督になりレッズは強さを増した。
1996年 U-23 アトランタ五輪 アジア予選に招集されるも、怪我でもないのに合宿を辞退。噂では結婚式の準備があったとのこと。
レッズでは、ケッペル監督の信頼を得ることはできなかったが、原監督になり出場が増えた。
1998年に小野伸二が加入してさらに強さが増した。
日本代表は名良橋の牙城を崩すことができず、フランスワールドカップは出場できなかった。
1999年は福田正博や小野伸二など主力が怪我。世界一悲しいVゴール、J2落ちを経験した。岡野雅行の前半戦の離脱も響いた。
2000年はJ2での戦いとなった。土橋のVゴールでJ1昇格を決めた。
トルシエジャパンも招集は無かった。三都主、俊輔、小野など左サイドが攻撃的だったため、右サイドは明神や服部など守備的な選手が起用された。
2002年のJリーグカップ(ナビスコカップ)では、決勝で鹿島アントラーズに敗れ、悲願の初タイトルを獲得するこができなかった。
翌年の2003年の決勝も同カードだった。エメルソン、田中達也など最強の攻撃陣、坪井、田中マルクス闘莉王など最強DF陣を揃え、見事勝利した。初タイトルだった。
オフト監督だった。
2003年東アジア選手権にスタメン出場した。久保竜彦らと出場した。ジーコジャパンの国内組中心だった。
韓国戦で大久保嘉人が退場した。
2003年シーズン、鹿島戦で逆バナナのスーパーゴールを決めた。
2006年ドイツワールドカップのアジア予選の合宿で、鹿嶋市のキャバクラに行ったことがばれ、代表から外れた。
2006年はレッズの主将として、Jリーグ王者になった。
AFCアジアチャンピオンズリーグでは、日本のチームで初のアジア王者に輝いた。
この時のゴール裏のサポーターは衝撃的にかっこよかった。
その後はマンチェスターU戦などで活躍した。

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