【合戦解説】相模平定戦 伊勢 vs 三浦・扇谷上杉 〜 立河原の戦いで勝利した伊勢宗瑞であったが、翌年再び南武蔵へ進軍した山内軍に扇谷上杉が降伏したため 関東全域が敵となる。宗瑞が決断したこととは…〜

2021/12/11 に公開
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時は 戦国時代初期

明応8年(1499)
西相模に侵攻した伊勢宗瑞は、困窮する領民を味方につけると山内上杉軍を追い払うことに成功する。
伊豆国主 そして西相模領主となった宗瑞は、まもなくして嫡男 千代丸を元服させた。甥であり臣従先の今川氏親から諱の「氏」をもらい「伊勢氏綱」と名付け 正式な後継者とさせると、今川家客将の身分から離れ 独立した守護大名として 今川家と対等な同盟関係を構築し、先の世を見据えた国造りを推し進めていく。
一方 伊勢宗瑞に伊豆国や西相模を奪われた 関東管領 山内上杉顕定は、奪われた地の奪還よりも先に 敵対する扇谷上杉家を服従させる必要があった。古河公方を味方につけた 山内上杉顕定は、永正元年(1504) いよいよ兵を挙げた。顕定は弟の越後上杉房能にも援軍を要請し、味方する古河公方も下野、常陸、下総の豪族を動かし、扇谷上杉包囲網が形勢され 扇谷上杉は風前の灯火となる。
事態を重く捉えた 扇谷上杉家当主 上杉朝良は 同盟先の 伊勢家、今川家に援軍を要請。それに応えた宗瑞と氏親は兵5000で武蔵に入ると、南武蔵に山内上杉顕定の本隊をおびき寄せ、立河原の地にて決戦に挑み 山内上杉兵 2000を討ち取る大勝利を掴んだ。
しかし翌年の永正2年(1505)春、 態勢を立て直した山内上杉軍、越後上杉軍に河越城を包囲された 扇谷上杉朝良は 孤立無援を悟ると降伏。ここに18年続いた 両上杉氏による 長享の乱は終結となった。
関東全域が山内上杉の支配地となる事を恐れていた伊勢宗瑞は、西相模や伊豆の領民を守るため、そして立河原の戦いで失った 弟 弥二郎、従兄弟の大道寺重時の死を無駄にしないためにも、巨大な敵と戦うことを決意する…


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※個人制作となりますので誤字脱字等ありますことご了承ください
※番組内に登場する忍キャラは、ユキムラが楽しむスマホ版ゲーム『みんゴル』でユキムラが愛用するキャラクターとなります。ぜひ「みんゴル」もやってみてね!
※通説に基づきつつも一部ユキムラ流に脚色を加えた合戦解説となります
※合戦や物語の出来事は諸説あります
※制作の都合上全ての情報や登場武将を網羅してはおりません
※登場人物名は改称時期に拘らずわかり易い表記で記載しております
※演出時に大きな音が出る場合があります
※2021年時点での歴史資料を元に作成しております

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