Piksiストイコビッチの全て サッカー人生ダイジェスト ドリブル FK 逆イエローカード 革靴ゴール 名古屋 マルセイユ レッドスター Пикси Стојковић Goals & Skills

2023/09/10 に公開
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Piksi Dragan Stojković
Стојковић Српски херој Репрезентација Југославије Лепо додавање и спор дриблинг Слободан ударац

セルビアの英雄 ユーゴスラビア代表キャプテン ストイコビッチ
14歳でセルビアのFKラドニチュキ・ニシュの下部組織に入団。16歳でトップチームに昇格した。
1983年 18歳でユーゴスラビア代表に招集された。
1984年、19歳でEUROフランス大会に出場。フランス戦でゴール。大会最年少得点を記録した。
1986年 21歳でセルビアの名門レッドスター・ベオグラード(Фудбалски клуб Црвена звезда)に移籍。5年間でリーグ戦120試合で54ゴール、優勝2回と大ブレイクした。
1988-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップ、2回戦でACミランと対戦。2試合で2得点を決め、欧州中に名前が知れ渡った。
1990年、25歳でユーゴスラビア代表としてイタリアW杯に出場した。監督はオシムだった。
強豪スペイン相手に2ゴールをあげる大活躍。世界中のサッカーファンの心を掴んだ。
アルゼンチン戦で、ストイコビッチは1人目のキッカーを務めたが失敗。チームも敗れた。
1990年 25歳でフランスの名門マルセイユに移籍。バルテズ、デサイー、デシャン、ボクシッチ、パパン、カントナ、フェラーなど同年代に物凄いメンバーが在籍したチームで10番を与えられた。
1991-92シーズンは、怪我が完治しない中、セリエAのヴェローナへレンタル移籍。
ユーゴスラビアでは内戦が勃発。スロベニア、クロアチアが相次いで独立を宣言。ユーゴスラビア代表は、戦争の制裁として、1992年のEURO本戦出場権を直前で剥奪された。
もしも、崩壊なくアメリカW杯に出場していたらストイコビッチの他に、クロアチアのシュケル、ボバン、プロシネツキ、ヤルニ、ボクシッチ、セルビアのミハイロビッチ、ミヤトビッチ、サビチェビッチ、ユーゴビッチら凄いメンバーが全盛期に揃うまさにドリームチームだった。
1993-94シーズン、28歳、膝の状態がよくなり、徐々に出場機会が増えた。欠場していた前シーズンの終盤戦でのチームの八百長問題が深刻化した。
アメリカW杯イヤーの1994年6月、29歳で欧州を離れ、名古屋グランパスエイトに移籍。
デビュー戦、試合開始18分で2枚のイエローカードで退場、散々なデビューとなった。
第11節 ジェフユナイテッド市原戦、大雨で最悪のピッチ状態だった。リフティングドリブルは伝説となった。
一緒に日本にやってきたセルビア人FWビニッチへ絶妙のアシストやFKによるゴールを決めた。
リーグ優勝の鹿島やナビスコカップ優勝の清水を倒し、サントリーカップのタイトルを獲得した。
1996-97年は、国際大会出場停止の制裁措置が解除されたため、セルビアとモンテネグロで構成されたユーゴスラビア代表の10番キャプテンとして1998年にフランスW杯の欧州予選に挑んだ。
1997年 サントリーカップ優勝で出場権を得たサンワバンクカップに出場。
1998年W杯フランス大会、ストイコビッチはグループリーグのドイツ戦で1ゴールをマークした。
1995年、1999年に天皇杯で優勝した。
EURO2000は控えの立場で臨んだ。初戦のスロベニア戦、途中出場で存在感を見せ、スタメンに復帰した。決勝トーナメント1回戦でオランダに敗れた。
2009年横浜マリノス戦で監督ながら革靴でスーパーゴールを決めた。

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